黒沢ちあきのストーリー

CHIAKI's STORY

黒沢ちあきのストーリー

幼少期 ~母の影と自己肯定感の欠如~

1976年、山形県山形市で生まれました。

小さい頃の私は、ぽっちゃりしていたこともあり、自分の容姿に自信が持てず、内気で自己肯定感の低い子どもでした。ストレスから爪を噛む癖もありました。ストレスと感じていた根底にあったのは、母親の存在でした。幼少期から母からの洗脳的な支配があり、私の人生にとても大きな影響を与えました。

幼少期

父親はあまり家にいないこともあって、母親は常に機嫌が悪く、悪口が飛び交う家庭環境で育ちました。家族の誰かが必ず悪口の標的となるため、自分も標的にならないように必死で機嫌を取る毎日でした。母親の機嫌が悪いと食事を与えられず、長時間の正座を強いられました。

幼少期の私は、常に恐怖の中で生活していて、家庭の中にやすらぎを感じたことは一度もありませんでした。

摂食障害、闇の世界、そして荒れた10年間。

母親は、専業主婦で自分のお金を自由に使うことができなかった苦労から、私に「資格を取って薬剤師になりなさい」とすすめてきました。母親の期待にこたえることが美徳であると思っていた私は、仙台の薬科大を受験しました。しかし、結果は不合格。滑り止めで合格した東京の短大に入学することになりました。人生初の一人暮らしでした。

18歳

しかし、この一人暮らしがきっかけで摂食障害が始まりました。これまでの18年の人生は、人に合わせてばかりでした。自分がどんな食べ物が好きで、どんな趣味があり、どんなことがやりたいのか全くわからない状態で、そこから生活が荒れに荒れました。

短大を入学してすぐに銀座や六本木で水商売を始めました。摂食障害だったこともあり、まともに働けなかったため、水商売の仕事は私にとって都合が良いものでした。18歳からつきあった彼氏は、闇金で働いていました。その彼氏のすすめで非合法なものにも手を染めました。バイトで稼いだお金は、ブランド品や食費などに消えました。

そして毎日日課となっていた過食嘔吐で、やめたくても思い通りにならない自分を責め続けて、心も体もすっかり疲弊していました。そんな生活は、その後10年続きました。

治療家を志したきっかけ

そんな苦しい生活の中、知人からのすすめでヨガに出会いました。ヨガに熱心に取り組むうちに奇跡的に摂食障害の症状も落ち着き、心と体のバランスがとれるようになりました。そのタイミングで、18歳から付き合っていた彼と結婚しました。

今までたくさんの人に迷惑をかけたこともあり、これからの人生は人の役に立ちたいと思い、二人で治療家を志すことを決めました。

治療家としての道を歩き始めた時代

当時の旦那さんと仙台へ拠点を移し、一緒に治療家を目指しました。彼は柔道整復師、私は鍼灸師になるために東日本医療専門学校へ入学しました。最初の3年間は彼が学生をしながら働き、私はその後の3年間、学生をしながら働きました。鍼灸整骨院で整体やリンパマッサージ等をして修行を積む生活は8年続きました。

そして、東日本大震災が起きた年に鍼灸師の免許を取得しました。この震災での経験も「治療家として人のために役に立ちたい」という気持ちを揺るぎないものにしてくれました。

離婚 ~シングルマザーとして生きる決意~

私は、自分の生い立ちから「子どもを産みたい」となかなか思えませんでした。自分が子どもに対し母親と同じ過ちを繰り返してしまうのではないかという恐怖が常にあったからです。しかし、ありがたいことに36歳で子どもを授かりました。子どもの存在は、今まで抱えていた心の闇を一掃してくれ、私の人生に光を灯してくれました。

出産を機に東京へ戻りましたが、彼の借金がきっかけとなり離婚を決意。23年間連れ添った彼と決別しました。将来の不安や恐怖がありましたが、子どもの存在が私に勇気と希望を与えてくれました。当時子どもは2歳。シングルマザーとしての人生を歩み始めました。

過酷な日々と師匠からの学び

そんな状況の中、子育て中に腰を痛めてしまい、紹介された鍼灸院を訪れました。そこで初めてトリガーポイント鍼療法を経験し、その効果に感動しました。勉強したいと思い調べていたところ、本格的なトリガーポイント鍼療法が学べる鍼灸院にたどり着くことができ、弟子として修行させていただくことになりました。

当時私は38歳で、最初の鍼灸院でのお給料は3万円でした。それだけでは生活ができず、鍼灸院の他にヨガインストラクター、テレアポの3つを掛け持ちして生活する日々を過ごしました。大変過酷な生活ではありましたが、師匠のおかげでエコー技術と多くの臨床経験を積むことができ、師匠が運営する協会では講師としても活動させて頂きました。

ファシアリリースとの出会い

そしてご縁があり2017年、群馬へ移転。

ファシアリリースの第一人者である木村ペインクリニック院長の木村先生のもとで働くことになりました。エコーを使った筋膜などのファシアに対する治療の精度を高めるために2年間勉強させていただきました。

木村先生と

木村先生には、エコーの見方や有効な治療ポイントなどを身近で教えていただき、とても勉強になりました。
心から感謝の気持ちでいっぱいです。

恩師との出会いが運命を変えた ―― 分子栄養学が導いた私の転機

2017年に分子栄養学カウンセラーのまごめじゅん先生に出会いました。

私は摂食障害の症状は良くなったものの、感情の浮き沈みが激しかったり、疲れやすく、朝起きられないという状態が続いていました。それらの症状は、まごめ先生のカウンセリングや講義を受けることで、副腎疲労、低血糖の症状だと分かりました。先生のご指導のもと、生活に分子栄養学を取り入れ、だいぶ体調が回復しました。

まごめ先生と

しかし、生活習慣を改善しても週末になると寝込むことも多く、自分でもその要因がわかりませんでした。その時、先生から「生き方そのものが健康につながっている」ことをご指摘いただきました。そして、生きづらさを感じていた会社員を辞めて独立することを決意しました。

独立後は、副腎疲労と低血糖の症状もいつの間にか完治しておりました。私は「人生をどう生きるのかが症状に大きく影響を与える」ことを自身の経験をもって再認識しました。独立してからの私は、やりたいことを実現できて、自分らしく生きられています。

まごめ先生と

先生のおかげで人生が変わったといっても過言ではありません。
同じ女性として、そして経営者として尊敬している先生です。

再婚 ~心を開いた先にあった新しい人生~

自分の足で自分らしく人生を歩いていけるようになった頃、かねてからお付き合いしていた現在の主人と再婚しました。主人はとても優しく、私たちを献身的に支えてくれました。そして何より惹かれたところは、娘に深い愛情を注いでくれたことです。その姿に心から感謝し、安心感を覚えました。

結婚式

しかしそんな優しさの裏に、どこか私に対する壁を感じることもありました。その理由を知ることになったのは、彼の心の影の部分に触れたときでした。互いにこれまでの人生を語り合い、歩んできた道のりを理解し合ううちに、彼は少しずつ心を開いてくれるようになりました。

その後の結婚記念日にて

今では、お互いにとって一番の理解者であると確信しています。彼は、私の夢を誰よりも応援し、それを叶えるために力を尽くしてくれるかけがえのない存在です。私は、長い間「家族」というものを知らずに生きてきました。しかし、彼と出会い、共に歩むことで、家族の温かさを初めて心から実感することができました。

「はり治療院ここから」開院

2019年、念願だった「はり治療院ここから前橋院」を開院しました。
家族、恩師、患者様、多くの方々の支えがあってこそ、今の「はり治療院ここから」があります。

この名前は、主人がつけてくれました。未来への可能性を感じさせる前向きな言葉であり、とても気に入っております。まさに「ここから」新しい人生を歩んでいくという願いを込めています。

前橋院 開院

2024年からは、主人も本格的に事業に参加し、現在は二人三脚で新たな挑戦を続けています。

これまでの人生で、私はさまざまな経験を積み重ねてきました。そして今「健康」と「美」に携わる仕事をしています。自身の体験を通じて「健康」と「美」の本質を深く考える機会を得ました。

健康とは、単に体が丈夫であることではありません。
実際、どれだけ食事に気をつけ、ヨガを実践しても、私の根本的な不調は改善されませんでした。

しかし「人生の生き方」を見つめ直し、自分らしく生きる決意をしたとき、私の症状は劇的に改善し、心と体が軽くなったのです。

心と体は密接につながっています。
そして、どのように人生を生きるかが、私たちの健康や美しさに大きく影響を与えます。

「はり治療院ここから」は、単なる治療院ではありません。
体だけでなく、心にも寄り添い、その人自身の生き方を整える場所です。

今までの経験は、すべて意味のあるものでした。
出会った人、起こった出来事、すべてが今の私を形作ってくれました。

そのすべてに感謝しながら、患者様に寄り添い、一人ひとりに合った施術を大切にしています。
症状の改善だけでなく、その方が本来の自分に戻り、素晴らしい人生を歩んでいけるように…。

そのお手伝いができれば、これ以上の喜びはありません。
お身体のことでお悩みの方は、ぜひ「はり治療院ここから」へご相談ください。

黒沢ちあき